“自分の知らない自分”に出会うということ

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写真は「記録」や「作品」でもあるけれど、僕にとってはもっと個人的な、発見のためのものかもしれません。
この記事では、僕がなぜポートレートを撮るのか、そしてどんな瞬間を大切にしているのかを書いてみました。

写真は、記録であり、演出であり、そして偶然の産物でもあります。 でも、僕がいちばん惹かれているのは—— その人が“まだ知らない自分”が、ふと写り込む瞬間です。

たとえば、風に揺れる髪を直す一瞬の手つき。 誰かの視線を避けるような、わずかな目の動き。 撮るつもりじゃなかったタイミングで、写ってしまった「その人らしさ」。

それらは、ポーズでも演技でもない、 その人の“無意識”からこぼれた、リアルな一瞬なのかもしれません。

「そんな表情、自分でも見たことなかった」

ある撮影のあと、被写体の方に写真を見せたとき、 彼女がふとこぼした言葉が今でも忘れられません。

「そんな表情、自分でも見たことなかった…」

その写真は、カメラを見ていない瞬間でした。 彼女が木陰で風を感じて、少し目を細めたタイミング。 言葉では説明できないような、 “その人のなかにある、静かなドラマ”が写真に宿っていました。

あの一瞬は、僕が導いたものではなく、 彼女自身の“なにか”が外にこぼれた瞬間だったのだと思います。

写すのではなく、出会う

この自分、なんだか自分らしい」と感じる瞬間を、誰かが写してくれたことはありますか?

僕が撮りたいのは、ポートレートではあるけれど、 ただ「きれいに撮る」ことだけが目的ではありません。

例えば—— その人が「自分のことを、こんなふうに知らなかった」と思える瞬間に立ち会いたい。

だから撮影中は、無理なポージングや表情の要求はしない場合が多いです。(もちろん、全く何もしない訳ではなく、良い写真に繋がるコミュニーケーションは積極的にとります) 

何気ない立ち位置、何気ないしぐさ。 その「無意識の選択」が、その人自身を一番よく語ってくれるからです。

「こんな自分でも、写っていいんだと思えました」

別の被写体の方とは、夏の終わりの公園での撮影でした。 何気ない会話のあと、ブランコのそばで一瞬だけ遠くを見た彼女の横顔を見て、思わずファインダーも覗かずにシャッターを切ったのを覚えています。

あとで写真を送ったら、こんな言葉が返ってきました。

「この写真、たぶん誰かに見せたら ‘ちょっと疲れて見える’ って言われるかもだけど… こんな自分でも、写っていいんだと思えました」

その言葉に、僕はとても救われた気がしました。

僕は、ただ「かわいい」と言われるための写真ではなく、 その人自身の輪郭が少し曖昧になるような、でも確かに“その人”がいる写真を残したいです。

写真は“まなざし”の記録

僕にとって、写真とは「まなざしの記録」です。 それは、被写体の視線だけでなく、 フォトグラファーである自分が、どこにどんな気持ちで目を向けていたか——ということも含めて。

“自分の知らない自分”に出会うのは、 もしかしたら少し怖くて、不安で、照れくさいことかもしれません。

でも、そこには、その人のポテンシャル(本当の美しさ)があると信じています。 そしてそれが写ったとき、 その写真は「誰かのため」ではなく「自分のため」に残しておきたくなるのだと思います。

僕は、そんな写真を撮っていきたい。 そしていつか、それが誰かの小さな自信や肯定感につながってくれたら嬉しい。

その一瞬の“まなざし”の記録を、これからも。

📸 この考え方に共感してくださった方へ

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